八千年の春


「老子・荘子」(角川ソフィア文庫ビギナーズ・クラシック:野村茂夫)を読んだ。

数千年ものあいだ読み継がれいる古典にこそ、普遍の真理が書かれていると思い最近は中国古典を読んでいる。

この中の荘子の逍遥遊篇第一に書かれてある「上古に大椿なる者あり、八千歳を以て春と為し、八千歳をば秋と為す」を読んで昔の記憶がよみがえった。

それは昔NHK大河ドラマ「武田信玄」を見たときのことだ。ドラマの終盤、信玄が孫の信勝に昔話を語る中でこの詩が出てくる。

その昔、唐の国に天にとどくほどの大きな椿の木があった。その大樹は八千年を春として花を咲かせ、次の八千年を秋として花を散らせていた。

ある日、若武者がやってきて「私はいつの日か、この地で一番偉い人物になってみせる」とその椿の大樹に誓う。やがて男は誓い通りその地の支配者となって、再び大樹の下を訪れて自慢げにこう言う。

「私は誓い通りこの地で一番の国主となった。しかしお前はどうだ。あいも変わらず花を散らし、実を落とし続けているではないか。もはや私の栄華を見ることもできまい。」と。

そう、男は大樹が今は八千年の秋を生きているということを露ほども知らなかったのだ。

やがて男は死に、苦労して築き上げた国も滅んでしまう。そんな男の人生をあざ笑うかのように、変わることなくその大樹は八千年間花を咲かせ続け、八千年間花を散らし続けた。

人間の傲慢さをあざ笑うかのように自然は今日も花を咲かせ、花を散らす。大自然の永遠の循環の中で私たちは生きているのだ。

これは武田信玄が自らを若者に見立てて、人生を振り返っているのだろう。自分の人生はなんだったんだろうか、甲斐、信濃、駿河と版図を拡大してきたが、すでに妻は死に自分の命もそう長くない。長男を自害に追い込み、娘は愛する夫と子供たちと離ればなれで、死なせてしまった。

心血を注いで築き上げた武田家の繁栄もいつかは終わるときが来る。それでも自然は何ひとつ変わらず、いつの時代でも花は咲きみだれ草木が生い茂るのだろう。

人間の一生とはなんだろうか?頑張る理由って何なんだろう?幸せってなんだろうか?

そんなことを考えたのを思い出す。

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