今日は父親の介護施設に行ってきた。
痴呆症がすすんだ父親を見ると、人の一生の儚さを感じる。
人は必ず老いる。バイタリティーはだんだんなくなり、やがて死をむかえる。
実は、昨日今日とずっとアマゾンビデオで「ゴッドファーザー」3部作を観ていたのだ。
アルパチーノ演じるマイケル・コルネオーネの活力に満ちた青年期、ドンとしてコルネオーネ一家を率いる壮年期、苦悩する老年期、そして死。
私の父親の姿とマイケルの姿が重なって見えたのだ。
この映画はずっと観たいと思っていたのだが、観る機会がなかった。「上映時間が長い」、「残虐な場面がある」、「流血を見たくない」 と敬遠していた。
しかし、この映画がアカデミー賞をいくつも受賞した、名作であることは知っていた。
まず、パートⅡから観た。アルパチーノ演じるマイケルとロバート・デ・ニーロ
演じる父親ヴィトーの青春時代が交互に描かれている。
強大になったコルネオーネ一家をドンとして率いていくマイケル。冷徹さゆえに成功を収めるものの、その引き換えに家族を崩壊させていく。
ヴィトーの青年時代は、世紀の相場師ジェシー・リバモアが活躍した時代と重なる。あんな時代をリバモアは生きていたのかと感慨深かった。
パートⅠは主人公がヴィトー・コルネオーネになる。1940~1950のアメリカが舞台だ。父親の意思を受け継いでコルネーオ一家のドンの地位を受け継ぐマイケル。
パートⅢはマイケルの苦悩の晩年が描かれている。他人を操り、大概のことを思うようにしてきたマイケルだったが、自分の家族だけは思うように操れなかったようだ。
ゴッドファーザー(The Godfather)のロゴには、操り人形が描かれている。
人は誰かの操り人形、知ってか知らずか、誰かに操られている。私も、誰かに操られているのだろう。
ヴィトー・コルネオーネの言うように操られる者ではなく、操る者になりたいものだ。