相場は「自己責任」ではない(2)

この記事は 2004/10/20に書かれたものです。

<引用ここから>

株式投資は、自らの固い意思を持って決断し、売買(株式投資では通常バイカイと読みます、 最も少し違った意味で使われるのですが、念のため)するものでは決してありません。何故でしょうか?

まず第一に、株式投資においては、何をいつどのくらい買うのか売るのか、現物にするのか信用にするのかツナグのか、といった決断を短時間のうちに迫られる機会があまりに多く、しかもその決断の一つ一つがそれなりの利益や損失を伴なってきますので、 いちいちその度毎に「意志」なるものを働かせていましたら、疲れてしまい、結果、10年20年といった長丁場には、とても耐え得ないということがあります。

「意志」による決断には、常に迷いや不安が黒い口をあけており、たいていの場合ホンの数年間で疲れきり、飽きが忍び寄り、決断は投げやりになり、意志は曖昧になり、株は次第に不良債権と化して(所謂塩漬け)、心の片隅に野イバラのトゲ少し刺されて、株式投資から去っていくことになります。

もちろん多くの方は、5年10年して世情が少しさざなみ始めると舞い戻って来るのですが、空白の〇年間はいかんともしがたく(失敗の学習効果は、ある程度継続しないと現われてこないのです)、再び同じ過ち、すなわち自らの「意思」を働かせて疲れ飽き、又去っていかれる方が多いようです。

次に、自らの「意思」なる、不定形で移ろいやすいものをもって決断し投資しようとする場合、意思の輪郭を必要以上に明確にしたがるきらいが生じます。

業績が飛躍的に良くなっているとか、最先端の技術を開発したとか、均衡表の雲を突き抜けたとか、誰にも明白な、買う理由を欲するようになってきます。

しかしこれは株式投資に限らず、あらゆる事業に共通なことではあるのですが、本当に利益になるのは、不明確なもの、不確実なもの、不分明なものが、明確、確実、明らかになっていくその過程なのです。

簡単に言えば、「意思」で投資した場合、タイミングが遅れやすい、ということです。誰にだって、自己防衛本能はありますからね。

ほかにも、例えば他人の甘い囁きに、自らの欲望を自分の意思だと錯覚して乗ってしまう、といったような、微妙な問題なども発生します。この場合など、自らの意思で自分自身を納得させダマす訳ですから、「自己責任」というよりも、「自己無責任」に近くなります。

このあたりになると、初心の方には狐につままれたような話になりますので、あまり深く言及することは避けましょう。

兎も角、「自らの意思」をもって、等という投資をしていると、いずれ飽き疲れ、惨めな気分と共に株式投資を放擲する可能性が、極めて高くなるということです。

株式投資という、こんなにも面白くて楽しくて、何よりも自由に人生を渡っていけるツール、ひとたび足を踏み入れた以上、死ぬまであるいはボケるまでやらずして、その思い持たずして、何をアタフタゴタゴタ、なんとももったいないことだとは思いませんか。

相場界に初めて足を踏み入れた初心の方々は、始めの数年間確かに、新しい世界の魅力に幻惑されて夢中になることでしょう。

しかし間違いなく、やがて飽きます、疲れます、そして次第に疎遠になっていきます。 ○○先生の本を、ブックオフに売りにいくようになります。それは、すべて「自己責任」で投資をしているからなのです。

くどいようですが、重ねて書きましょう。 株式投資は、「自らの意思」で決断し、投資するものではありません。

では一体、何が投資をするのだというのでしょう。 自分が決断し投資しているに、決まっているではないか、秘密の小部屋は例によって何をグダグダと訳のわからないことを言っているのか。

答えは意外なほど、簡単なことです。 簡単ではありますが、なかなかどうして、誤解しやすいことでもあるのです。

闘志尚存して春の風を見る(虚子)

○○先生のホームページにある「春風や闘志いだきて丘に立つ」を作った時、虚子39歳、爾来星霜重ねて37年、76歳の時の虚子の句です。今の私には、この句の方が何故かしっとりと纏わり付いて来るのですが、いけないいけない、 あんまり老け込んでは、ね。

ザビさん、お大事になさってください。私は、ザビさんをはじめとしたホンの10人ほどの方々を常に念頭において書いているのですから、また必ず読んでくださいね。

炎天の遠き帆やわがこころの帆(誓子)

(以下次回)

<引用ここまで>

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