張良と黄石公

「日本辺境論」(新潮社:内田 樹)を読んだ。

とても面白い本だ。我々日本人が根っからの対象国家であり、主体的国家がなければ国際社会では生きていけないことがよくわかる。

この本の中に「張良と黄石公」の話しがある。張良とは漢の三傑の1人で、劉邦を補佐し漢王朝建国に大いに貢献した人物だ。

張良がまだ若い時、黄石公という老人に弟子入りし、太公望の兵法を教授してもらうことになる。

しかし老人は何も教えてくれない。ある日路上で出会うと、馬上の黄石公が片方の沓を落とし、履かせるように張良に言う。張良はしぶしぶ沓を履かせる。

また別の日に路上で出会うと、今度は両足の沓をバラバラと落とし、履かせるように張良に言う。張良はムッとするのだが、沓を履かせたその瞬間に兵法奥義を会得するという話だ。

たったそれだけの不思議な話だが、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えたそうだ。

沓を故意に落とすという行為が2度続いたからには、そこには師からのメッセージがあるはずだ。それは兵法の極意に関することに間違いない。とすれば、沓を落とすことによって師は、何かを私に伝えようとしているにちがいない。張良はこう思いを巡らした、その瞬間に太公望の兵法の極意は会得されたのだった。

私は若かりしとき、道場に住み込みながら武道をしていた。

当時、師範にこのような「問い」を掛けられることが何度かあった。はじめは昇段審査の結果だった。初段の昇段審査の結果を聞きに行くと、師範は「自分で考えろ」という。

考えろ? 結果を聞きたいだけではないか。どういうことだ。「結果が分からないから、聞いているんです」。

すると師範の答えはこうだった「君はいつも表面しか見ていない、もっと深く考えることを身につけなければいけない。どうして私が合否を話さないのか?それはなぜなのか?そういうことを考えられることも修練だ」。

はじめは「何を言っているんだ、この人は」と思った。早く合否を聞いて、合格なら良し、不合格なら、どこが悪かったのかを聞ければそれでいいのに。

しかし今考えると、そんな考えしかできない私が、初段の帯を腰に巻くには時期尚早なのは明らかだった。

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