相場は「自己責任」ではない(3)前半

この記事は2004/10/21に書かれたものです。

「相場は「自己責任」ではない(3)」は長文のため前半と後半に分けます。

<引用ここから>

1回目の最後に、自らの意思で投資するのではない、と気が付くことは、株価の予測は不可能である、と並んで重要なことである、と書きました。実はこの両者には、密接な関係があります。

株価を予想しない、ということは、感覚ではなんとなくわかるような気はするのですが、なかなかどうして、実践に臨む人間の心理としては、一体具体的にどういうことなのか、理解しがたい部分があります。

例え外れるにしても、高くなりそうだ、高くなるかもしれない、高くなって欲しいと希望して予測し て、株を買うのは当然ではないか、と思われることでしょう。希望とは、将来に対する不安、の別名ですので、株を買う瞬間にあなたをザザザーと通り過ぎ る一瞬の喪失感覚には、一種独特な魅力(?)があります。

簡単に言いましょう。

株価を予想しない、ということは、株は高くなるだろうと思って買うものではない、ということです。

繰り返します、株は高くなるだろうと予想して買うものではないのです。買うべき日柄が経過し、買うべき値段に届いたから、買うものなのです。買った以後、高くなるか安くなるかは、(敢えて誤解を恐れずに書くならば)どうでも良いことな のです。

その事実を納得すると(しようがしまいが私にはどうでも良いことなのですが)、展望は急速に開けてきます。

但し私は今、事実、と書いたのであって、真実、と書いたわけではありません。 以上のことは、真実のホンの欠片であって、相場の真実はそれ以外にも様々ありますので、何を受け入れるかはたまた拒絶するかは、すべてあなたの自由裁量に任されています。 あまりに当たり前でした、ね、ごめんなさいね。

話を戻しましょう。

相場が、自らの意思で行うものではないとしたならば、一体何をもって行うものなのか。

答えはあっけないほど簡単なことなのですが、そうした考えを持つ人はあまりにマイノリティなので、そのことに明確な単一の、これといった共通の名称はつけられていません。

或る人はそれを「技術」と呼び、或る人は「法則」と呼び、ルールと呼び、やり方とよび、方式とよび、戦法と呼び、教条と呼び、スタイルと呼び、投資法と呼び、最近の流行り言葉で言えば 「自動売買」と呼んでいます。 (ただあの自動売買の本は、あまりに稚拙でいけませんよ、逆指値の宣伝なのかも、ね)

最もそういった考え方が一般投資家にメッセージされ始めたのはごく最近のことで、それだけでも多少、相場界も進歩しているのかもしれません。

なんだ、そんな事か、とは思ってはいけません。 まだ、100分の1すら、言っていないのですから。

というのも、人々がそれぞれに名付けているそうしたやり方は、私の知る限りにおいてはかなりルーズであり、個人の意志や感覚に委ねられている部分がかなり残されています。 史上有名なC戦法にしろ、F方式にしろ、Kルールにしろ、S法にしろすべて骨格のみであり、個人の自由裁量の余地がかなり残っています。

私のいっているのはちっぽけな私達の欲望と恐怖に歪められたつまらない意思など、何一つ必要としないもののことです。私は通常、「システム」と呼んでいますので、以後、この言葉を使わせていただきます。

<引用ここまで>

(つづく)

スポンサーリンク
スポンサーリンク




スポンサーリンク