君微笑めば 君に散る(2)

この記事は2004/05/14に書かれたものです。

<引用ここから>

仮に今、相場は当て物ではない、と書いてみましょう。 当然それに続く言葉は、相場は技術である、となるでしょう。

相場は当て物ではない、
相場は技術である。

勿論ここでいう技術とは、非常に広義な意味合いで使われており、たとえば黒田さんの驚くべき慧眼による銘柄選択術であるとか、〇〇〇さんの卓抜な売買法であるとか、あるいはtrader21さんの変動感覚とか、チョッピリいわせてもらえれば私の伸び縮みのする柔構造のシステムとか、 ともかく広範囲にわたっています。

相場に対する考え方は無数にあり、接し方も無数にあり、故に技術も星の数ほどあるのは、ある意味、 至極当然のことといえます。 ですから、技術の優劣を論じ合うことほど、空しいものはありません。

さて、問題はその次の段階で、 当然、相場は技術ではない、と否定することになります。

相場は確かに技術ではあるのだけれど、それはまだ途中の段階で、次の段階では相場は技術ではないのです。

相場は技術ではない、では何なのか?
つまるところ、相場は心境である、となります。

相場は技術ではない、
畢竟、相場は心境である。

実はこれは間違いのない事実なのですが、相場というものは、12年間に2度、どのように完璧に構成され た技術体系であろうとも、理不尽に、暴力的に、無残に踏みにじっていく、という性質を内包しているのです。

12年間に2度というのは、6年間に1度というのではなく、12年間に2度なのです。 つまり、3年間に2度起こってしまってあと9年間は起こらないとか、そういったことです。 まごうかたなき、12年間に2度なのです。

この辺の説明はもっと詳しくしなければならないのですが、例えば、総てのありとある技術がなぎ倒されるということでもないのです。

今仮に、A, B, Cという、3つの技術があったとしましょう。 ある時点で、AとBは壊滅的な打撃を受けるとして、Cは全く影響を受けないということもあります。 ともかく、どんなに正しい正道をいく技術であろうと、緻密な観測であろうと、12年間に2度、無残にも崩壊 するのです。

こんなことは、私以外誰も言いませんし、今後貴方は2度と聞くことはないでしょうから、一体このキチガイは何を言っているのだと、分からない方も多いでしょう。

ここに、相場は技術ではない、 畢竟、境地である、ということの意味合いが、生じてきます。

つまり、技術が敗れた時、技術が一敗地にまみれた時、相場をする人間を支える最終最後のものが、この澄みきった、境地、なのです。

しかも面白いことに、その苦境を乗り切ったとき、崩壊した技術が再び正に不死鳥の如くに蘇るのも、また、相場の極めて面白いところなのですが、実例や境地の磨き方などは、次回に譲ります。

ところで、私の書いていること、あまりに突飛でしょうか?このまま書き進めてもいいでしょうか?

(以下、 次回)


スポンサーリンク
スポンサーリンク




スポンサーリンク