君微笑めば 君に散る(3)前半

この記事は2004/05/16に書かれたものです。

「君微笑めば 君に散る(3)」は長文のため前半と後半に分けます。

<引用ここから>

始めに断っておきたいのですが、間違っても、オレは技術もまだまだこれからなのに、境地だなんて、何の関係もないや、などと思わないでください。

なんとなれば、技術がある程度形をなしたうえで次の段階に移っていくものでは決してなく、ささやかな技術一つ身につけば、その技術がささやかな境地を生み出し、相場の本質について、チョットした認識が得られれば、技法に関するアイデア一つ生まれる、といったように、 この両者はパラレルに、お互いフィードバックしながら進んでいくものだからです。

そして前回述べたように、技術が危機に直面した時、それを支えてくれるのが、積み上げてきた認識から導かれる境地であり、また、境地に何らかの濁りや翳りが生じ、迷いの森をさまよい始めてしまった時、その行く道を明るく照らしてくれるのが、しっかりとした技術の力なのです。

歴史的に言えば、技術は常に思想を伴ない、思想と技術が分離してしまった時、破滅への道が待っています。

金属の精錬技術や、何よりも医学知識を切実に欲した古代の日本は、その技術と共に仏教思想を受け入れましたし(薬師如来を拝まずに、薬師(くすし)の治療を受けるわけにはいかない)、産業革命以後の近代科学技術は、民主主義思想と不可分の関係にあるわけです。 明治維新の時、科学技術をほしいが故に西洋市民社会の思想を受け入れざるを得なかった大久保利通 や伊藤博文に、だまされたと感じた攘夷思想が根深く沈潜し、やがて昭和の経済危機と共に昭和維新として噴出し、思想と技術が分離したまさにその時から始まった、世界史上類例のない愚行、それ以上はもはや言わずもがな。

無相大き技術は必ず暴走し技術を生み出さない思想はマヤカシである、別段大げさな話をしているわけではなく、ごく日常でも技術をアイデアと、思想を理念とでも読みかえれば、物事の真贋を見分けるのは、意外とたやすいものです。 ましては、相場においてをや。

さて、話を戻しましょう。 前回書いたことは実は何ら突飛なことでもなんでもなく、要するに、完璧な技術は存在しない、という、至 極当然なことを、少しカッコをつけて書いただけのことです。

突飛なのなはただ一ヶ所、12年間に2度という箇所だけでしょう。

更に解説すれば、2度のうち壊滅的な打撃を受けるのは1度であり、技術の完成度が高ければ高いほど、残りの1度は、軽やかな衝撃程度で済むはずです。 そうですね、損は何もしていないけれど、せっかくのチャンスに儲けそこなった、といったような類いのショックとかね。

ただ私がこだわりたいのは正にこの12年間に2度という、基準なのです。

つまり、3度も4度も打撃を受けたとしたら、それは技術が未熟なのであり、技術などと呼ぶのもおこがましい単なるやり方にすぎない、だからそのやり方はすぐに放棄しなければいけない、ということであり、 しかし、1度壊滅的な打撃を受けただけなら、それだけでは、その技術は誤っていると結論付けるわけにはいかない、ということなのです。

そしてそのリトマス試験紙になるのが、その技術を使うことによって、どの程度の境地に達し得たか、ということであり、その技術が数年のうちに、果たして劇的な復活を果たすか、という2点なのです。

<引用ここまで>

(つづく)

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