松陰 (5)

群馬を発って、3日目にしてやっと久留米にたどり着いた。電車に揺られて結構しんどかったが、彦九郎先生の生きていた時代を考えれば、信じられないほどの速さだ。


この写真は彦九郎先生が自害された、森嘉膳宅跡。お墓は近くの別なところにある。


久留米の方たちによって、丁重に祀られている彦九郎先生のお墓。

幕末の志士吉田松陰の「松陰」は、尊敬していたという彦九郎先生の諡(おくりな)「松陰以白居士」からとったものだと言われている。

水戸を訪れた吉田寅次郎(後の松陰)は、そこで高山彦九郎の存在を知り、その生き方に大きく感銘を受けたという。その後松陰は東北地方に旅立つが、そのルートは彦九郎先生の「北行日記」に記されたルートを意識したものであったと言う。

さらに松陰の辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と、彦九郎先生の辞世の句「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」との類似性を見ても彦九郎先生の影響が非常に大きかったであろうことが伺える。

平成に生きる私たちにとって吉田松陰はじめ幕末の志士たちが、時代を変えた憧れの存在であるように、幕末の志士たち(特に長州藩士)にとって、尊王運動の先駆者高山彦九郎は憧れの存在だったようだ。


彦九郎先生のお墓

あの長州藩士久坂玄瑞は師匠であり、義理の兄でもある吉田松陰の死後、ここ久留米の彦九郎先生の墓を訪れている。そしてこのお墓をスケッチしている。


「松陰以白居士」の文字が刻まれている

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