この夏、彦九郎日記の「澤入道能記」に記されている「寝釈迦」と「相輪塔」を見に行ってきた。
この旅は彦九郎先生が36歳の時、天明2年(1782年)4月6日~9日、平吉を伴い、上野国勢多郡沢入(現在の群馬県みどり市東町沢入)の「寝釈迦」と「相輪塔」(彦九郎日記では、白蛇塔とも言われている)を訪ねるものだ。
今回は自動車で日記に書かれているルートを走って、沢入(そうり)まで行った。
鳥山 - 藪塚浅美(藪塚阿左美)- 岩宿 - 雨沼(天沼)- 大間々 - 神梅 - 神戸 - 水沼 - 花輪 - 大草木村(草木ダム)- 沢入宿
235年前の地名はいまだに生きていて、東武鉄道、JR両毛線、渡良瀬渓谷鉄道の駅名にそのまま残っている。
今でこそ駅周辺の人口は減ってしまったが、昔は今以上に人の往来があったものと思われる。
さて、車で草木ダムを越え、富広美術館をさらに進む。
草木ダム(大草木村はこの湖底なのだろう)
すると袈裟丸山登山道入り口の看板が現れる。目的の寝釈迦像まで6キロとある。
車で細い山道をのぼる。
寝釈迦像まで3.2キロ。
開けたところに出る。
ここで車を止める。公衆トイレもある。
ここから歩く。寝釈迦像・相輪塔まで1.8キロとある。
沢トレッキングの始まりだ。
歩道が整備されているわけではないので、途中道を見失いそうになるも、それらしい道をひたすら歩く。
しかし、よく見るとピンクの目印がある。先人の残してくれた目印だ。ありがたい!
目印に従って歩く。
かなり険しい、彦九郎先生の日記を読むと、ガイドを雇って行ったと記してある。確かに当時ガイドがいなければ到底来れなかっただろう。
235年前、彦九郎先生が歩いた道もこんな感じだったのだろうか。
歩くこと1時間。やっと着いた。1.8キロとあったが、山道なのでそれ以上に感じた。ヘトヘトだ。
看板にたどり着く、更に巨大な岩の上に登らなければならない。(岩の上に寝釈迦が彫られている)
岩に登り、やっと寝釈迦像に会えた
頭部を北に長さ368センチ、幅130センチの大きさだそうだ
葉が生い茂り、写真ではよく見えないが、ここから相輪塔の頂上が見える
看板の解説では、この寝釈迦像はいつ、だれによってつくられたかは分からないと言うことだ。しかし彦九郎先生が噂を聞いて、ここに来ているということは、少なくとも235年前にはすでにここにあったということだ。
沢を渡り相輪塔(白蛇塔)にも行ってみる。
沢を渡るとすぐに看板が現れた。
葉が生い茂りしばらく迷ったが、あった。天に屹立する相輪塔、高さ18メートルだそうだ。
見下ろすと、確かに看板の解説の通り、下に行くにつれ細くなっている。
下から見てみたが、葉に覆われ上が見えない。
これが自然にできたものなのだろうか?
岩を積木のように、のせているようにしか見えない。もしそうなら、こんな山奥に、重機もない大昔に、だれが?なんのために?どのようにして?
しかも上が太く下に行くにしたがって細くなる不安定な形で、まったく不思議だ。
本当に天狗の仕業なのかもしれない。
彦九郎先生も「此塔人作にあらて天工のなす所世に珍しき事と覚ゆ」と言っている。
先の大地震でもびくともしなかったこの巨塔、きっとはるか大昔からここに屹立しているのだろう。
とても神秘的だ。
信仰の対象なのだろう、寝釈迦像同様に、こちらにも周りに小さい仏像が置かれている
さて、時計を見ると15時半、そろそろ下山をしなければヤバい。
熊鈴をリンリンと鳴らしながら、元来た道を足早に戻った。