Bさんへの手紙(前編)

「Bさんへの手紙」は、前編と後編に分けさせていただいた。

<引用ここから>

Bさん、お元気ですか。
細かい話はいずれするとして、さっそく相場の話をしてみたいと思います。

○ 炎天にしゃがむ 少年よ飛翔に 何が足りない

まず真っ先に、相場に対処するに際しての、基本的なコンセプト、自らの拠って立つ場所を明確にする、一行の短いメッセージを、自分自身に向かって発しておかなければなりません。

私の場合、20年近く以前に某投資雑誌で見かけたいささか風変わりな読者投票、「あなたの一番好きな相場格言」で、圧倒的な1位を獲得していた格言を、自らの相場の拠り所にすることにしました。
それはそれこそ誰一人知らぬ者のない、例の格言です。 曰く、「人の行く 裏に道あり 花の山 いずれにしても 散らぬ間に行け」

この格言がかくも人口に膾炙し、実に長い年月に渡って愛されてきたと言うことは、そこに間違うかたなき相場の真実が秘められているのではないのか、と考えたからです。

〇  夏至の崖 太郎次郎の 影奪ひ

ところでBさん、あなたはこの格言を、どのように理解されていられますか。 「花」とは当然桜を意味しているのですが、もしかしたらBさんも、他の方々と同じように、人の行く裏を行けば花の山に行きつく、即ち利益を得られる、ということだと、勘違いされていられるのではないでしょうか。

この格言は本来連歌であり、「人の行く 裏に道あり 花の山」と言う発句に、「いずれにしても 散らぬ間に行け」と言う句を、つなげたものです。
となれば、発句で一番大切なのは、いわゆる「切れ」になります。 この発句は当然「人の行く 裏に道あり/花の山」と切れます。
つまり、花の山は前の上五中七の両方に係り、決して花の山に行きつくのではありません。

まず花の山があり、人々も花見見物にその花の山の道を歩いており、その人々のさざめく道の裏側にも道はあるのですよ、と言っているのです。 ですからどちらの道を行くにしても、散らない間に行きなさいよ、という後半が存在するのです。

Bさん、私がどうでもいいことを、何グダグダと言っているのだとお思いですか。 しかしここでじっくりと考えていただきたいのです。

人々の行く道を行く(人気株の順張り)、その裏の道を行く(不人気株の逆張り)、どちらを行っても、散っていなければ花はありますし、もし散ってしまっていれば花はないのです。 その確率が共に2分の1だとするならば、なればこそ絶対に裏の道を行かなければならないのです。
何故だかおわかりになりますか。

〇  夏至真昼 子午線真直ぐに 揺るぎなし

世の中は通常、例の80対20の法則で動いていますが、「金持ち父さん 貧乏父さん」のミスターキヨサキは、金融の世界では、90対10だと言っています。私も彼の考えに同意します。

今仮に花が100あったとしてみましょう。 90人が歩く道では、1人あたり100÷90で、1強の花しか手に入れられません。 ところが10人が歩く道では、100÷10で、1人あたり10の花を手に入れることが出来ます。
これが、裏の道を行かなければならない、理由です。

こんな解りきった、明々白々たる理由があるにもかかわらず、人々は何故、表の道を歩いていくのでしょうか。 確かに表の道のほうが、花が多いのかもしれません。しかし裏道の花が仮に50だとしても、1人あたり5の花が手に入ります。

何故人は、表の道を歩くのか。
それは、山だからなのです。
表の道はさほど起伏もなく、道も充分に広く整備されています。
しかも証券業界が、警備員まで派遣して整理にあたってくれています。
裏の道は、当然狭く、道は急で、一汁二汗かかなければならず、しかも前後左右、人の影は 見えない心細さが待っています。

更に悪いことには、表の道にも確かに妖艶に花は咲き誇っていて、人々をあやしの世界へいざなっているのです。 ただし、花の総量は多いとしても、1人あたり1強でしかない花が。
Bさん、どうか近道を行かずに、近い道を行ってください。

この格言から、相場を始めたばかりの当時の私が汲み取った、基本的な考え方は、以下のとうりです。
「常に少数派であること、それも90対10の10人以下である少数派であること」

○ 雲の峰 反抗的人間の 人間的反抗

しかし人間が常に群れを渇望し、安全を希求する存在である以上、このことが決して安易な道ではないことも、すでにBさんには骨身に達して解っていられると思います。
それではどうすれば道は開けるのか。
次の手紙では、人は相場とどういう順番で関わっていくのか、を、5段階に分けて説明しながら、その方法を探ってみたいと思っています。

〇 道はぐれ 妖しへ誘(いざな)う 山桜

○ 落城址 怨、風となり 花散らす

ところでひとつ、余計な話をしていいですか。
俳句の「切れ」に関しては、それを知らない人々がたくさんの誤解をしています。一例を挙げれば、あの日本一有名な俳句、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」ですが、これは当然、古池や、で切れます。
となれば、蛙は古池に飛びこんだのではありません。

芭蕉の前に古池があり、近くの川に飛びこむ蛙の音だけを、芭蕉は聞いたのです。もし目の前の古池に蛙が飛びこんだのならば、「古池に蛙飛び込む水の音」となり、飛び込むで、切れることになります。 従来、見るもの、鳴き声を聞くものであった蛙と言う卑俗な存在を、芭蕉は飛びこむ音に注目することによって、ワビサビの段階に引き上げ、そこにこの句の名句たる所以があるのです。

奥さんに話して少し自慢してください。 もっとも、あんた、だから何なのよ、と言われてしまうかもしれませんが、ね。

〇 君穂高 抱けばさやか 七月の降る

知る、ということは、悲しいことなのです。 知れば知るほど、人は、この世の中が如何に自分と関わりのないところで動いているか、ということを、否応なく知らされてしまうからです。

相場に関しても、如何に自分が知らなかったかと言うことを、悲しみをもって認めていかなければなりません。
でもねBさん、自分の無知を無力を知ったとき、悲しみはやさしさに変わるのだ、ということも、 同時に覚えておいてください。

つまらない事を書きました。
また、手紙書きます。
お元気でね。

〇 砂の河原 いたこになれぬ 老婆の夏

<引用ここまで>




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