相場物語 (7)

<引用ここから>

* 相場物語(7)

ここで株式投資が実業の世界とはまったく異なったルールで動く影の世界であり、それゆえにこそ正確な先行指標(通常3つの季節分、現実を先取りします)になりうる理由について、少し説明してみたいと思います。

株式投資の持つ特殊性を理解しておけば、木が沈み石が浮いたときも、まさか、とは思わず に、そういうこともあるよな、と冷静に対処できるのではないかと思ってのことなのですが、あるいは余分なお節介なのかもしれません。

その最も主要な理由は、様々な面で、株式投資における価値の希薄化、抽象化、実業との落差、というところにあります。

例えば時間感覚が実業の世界とは極端に異なります。 仮に今、サラ金がいいと思い、サラ金を始めようと考えたとします。実際にサラ金会社を開業するには、駅前のビルの3階を借り、届け出をし、従業員を雇い、 宣伝のティッシュを配って開業します。どんなに急いでも軌道に乗るまで数ヶ月はかかると思います。 しかし株式投資では、これからはサラ金だ、と思ったらすぐ、証券会社に電話するなりコンピ ュータをクリックするなり、ものの10分もあればサラ金会社の株が買えてしまいそれで終わりです。

この時間性における落差は大変なもので、実業の世界がわざわざ北海道の大雪山の山奥まで行って野生のクマを見るのに比べると、近くの動物園のクマを見る、否、動物図鑑のクマの写真を見るほども違っているのです。

例えば「資金」の感覚のずれがあります。

仮に500万円、サラ金に投資したとします。 実業の世界では、その500万円は家賃や給料や宣伝費に費消され、失敗したとき、ほとんど 手元には残りません。 「実は失敗したとき、当初の現金にもどらないものを「投資」と呼ぶのであって、サラ金会社を起こした場合は、確かに500万円投資したといえます。

しかし株式投資においては、いつでもかなりの部分が元の現金に戻ります。 つまり、500万円サラ金の株を買った場合、実は500万円投資したのではなく、手数料と税金でせいぜい10万円ほど投資したに過ぎないのです。 値下がりして2割の含み損を抱えてやっと、100万円投資したといえます。

しかし株を買った本人はそんな事は夢にも思わず、500万円投資したと思っています。ここにも株式投資の持つ、実業の世界との抜きがたい落差があります。

こうした価値の希薄化、抽象化、落差は、一般の社会から見て、株式投資を必要以上に軽視する傾向を生み出します。 株で儲けようと誰も誉めてくれませんし(勿論絶対に人に話してはいけません、相手を不愉快 にさせるだけです)、もし失敗でもしようものなら、ほら見たことか愚かなやつよと笑われます。

実はそうした世間の扱いには無理からぬ面もあるのです。 それは「志」の面においても、株式投資では希薄化から逃れられないからです。

若い方々はあまり理解されていないのですが、会社の創業者とか一流企業のトップの方々 は、(例外は常にありますが)単なるお金儲けというよりも、お客様の喜ぶ顔がみたい、とか、 何らかの形で社会に貢献したい、といった「志」を持った方が意外と多いのです。

町工場のオヤジさんですら、後継者がいないから本当は廃業したいのだけれど、5人いる古くからの従業員の生活のことを考えると、なかなかやめることもままならない、といった、社会的な責任を感じている旨の発言をよくします。
これも小さいなりの立派な「志」にあたります。

(「志」ということになると、私はよくキヤノンの社名を思い出します。 キヤノンの社名は、カ、ン、ノーンの詰まった形であり、つまり観音様から取った社名なのです。観音様のお慈悲が、あまねく衆生に光を与えるように、その製品によって人々に光を与えたいという願いからつけられたものです。)

天下りの最たる欠陥は、実は彼等が「志」を持たないところにあり(役人時代はそれなりの志はあったのでしょうが)、銀行界の醜態は、志無き彼等が、経営の上層部に座ってるのではないでしょうか。
勿論株式投資もまた金融界の一端を占めていますので、原則として「志」は極めて希薄化されています。 それが社会的に認知されない一因になっているのです。

ただ私の個人的な感想をいわせていただければ、私は「志」の無いところに、株式投資の魅力を感じています。 「志」の価値を否定はしませんが、私のような影の人間にとっては、なにより大切にしたいのは精神の「自由」ですから、たとえそれが「志」であろうとも、なにものにも縛られたくは無いという思いの方が、強くあります。

しかしあらゆる面におけるそうした希薄化、抽象化が、現実に根ざしながら現実から遊離して、株式指標に未来の予知能力を与えているのですから、皮肉な現象であると言えば言えるのかもしれません。 実業の世界が現実との格闘であるならば、株式投資は未来との格闘なのです。

もうひとつ、忘れてならない要因として、株式投資における「努力逆転の法則」があるのです。
が、どこまで書いたらいいのかこれはなかなか微妙な難しいところで、いずれの機会にゆずらせていただきます。

87年の年明けと共に、街の片隅をさまよう汚れたイヌのように、私は株式市場に参加したのです。
「独りであること
 未熟であること
 それが私の相場道の原点である」
この言葉たったひとつを、大切に抱きしめながら。

春まだ遠く、椿のつぼみは今だかたくなに、その清冽な美しさを現そうとはしていませんでした。

<引用ここまで>



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